· 

東洋のシンデレラこと・・徳川3代将軍 側室のお楽の方のお寺「高勝寺」へ妊活ツーリング

 

いつもは・・真面目な硬い?内容でClientさんたちと、クラウドで共有ファイルを一緒にに見ながら

 

ディテーリングをしているのですが・・ 真面目な話だけでは皆様がお地蔵サマのように硬直

 

してしまうので かなり砕けて 話をしたりmailをし合っているのは、患者さんたちはご存知でしょう。

 

 

 

一部のClientさんたちは知っているように・・

 

今日の日曜日・・オートバイでツーリングにソロでいってきました。

 

 栃木です!岩船です。 佐野アウトレットからそれほど遠くはない距離にそのお寺はあります。

 

 徳川三代将軍「家光」の側室のお楽の方が・・4代将軍の授かりを願ったお寺に・・

 

岩船山 高勝寺

 

 私の大好きなお寺でして・・ 知る人ぞ知る 妊活のお寺でもあるのです。

 

 なぜ? 東洋のシンデレラと呼ばれたのか?は このBLOGの後半に書いておきました。

 

 

春日局がこの罪人の娘を シンデレラ・ストーリーで大奥に上げたのは・・とても夢のある話です。

 

奴隷から将軍の生母という、当時の女性の身分階級の底辺からてっぺんまでを

 

生き抜いたお楽の方 の生涯。

 

うちの田舎では・・死んだら あの世にいくまえに ここのお寺に立ち寄って 

 

現世の服を全部脱ぎ捨ててから 天にあがるという言い伝えがあります。

 

 そのために このお寺には・・たくさんの着物が吊るされています。 

 

 こどもたちの上には・・たくさんの着物がぶら下がっていますね。

 

 

みんな 死んだ方の着物なのです。不気味がらないでくださいね。

 

 

 

 Clientさま達の妊娠もお祈りしてきました。

 

 よき世継ぎが天命をもって生まれてくるためです。 

 

岩船.jpg

 

 ここに登ってきました。 ご覧の通り かなり尖っています!!

 

  私の非力なオートバイは悲鳴をあげそうですが・・オーバーレブ気味にて根性で登山アタック。

 

 ちなみにここは砕石所もあるので・・子どもたちがTVで夢中の仮面ライダーや戦隊ものの特撮が

 

 撮れれるのでもそちらでも有名です。 

 

 都内から1時間20分ですから撮影には便利。 ライダーたちが都内から自走してこれそうです。

 

 

 昔から こんな感じで・・気軽に撮影に来ていた? 仮面ライダー1号・2号

 

 そして 最近では45年ぶりに大御所仮面ライダー1号 こと  本郷猛も・・栃木に向かう。

 

   ↑ クリックすると・・動画start

    「本郷たけし(=藤岡弘)、この世に誕生した最初のライダー」が45年ぶりに

     帰ってきた!!」 今の子どもたちは夢中です。

藤岡弘、が渋すぎる変身ポーズ!

ー 映画『仮面ライダー1号』予告編 ー

 

45年前の仮面ライダー1号こと・・「藤岡弘さん」は・・

 

2020の今でも小さな子どもたちのヒーローだって知っていましたか?? 

 

それと・・吉川晃司さんも・・  ライダーです。

 

吉川さんの「伝説のシンバル・キック」はステージパフォーマンスの応用でしょうか?

 

ハイキックよりも・・高いシンバル・キック・・ 今でも飛べるのは本当に凄い。

 

歴代のライダーたちはみんな ここの現場で撮影していました。

 

★    ★    ★

 

話はそれましたが・・ このお寺「高勝寺」を全国区で有名にしたのは

 

やはり 「桂昌院」 お楽の方

 

この方が お子様を産まなかったら日本の歴史は変わっていたといっても言い過ぎではないです。

 

映画になるのも・・当たりまえでしょう。

 

「東洋のビーナス」が・・ 法隆寺「百済観音」※ならば

 

「東洋のシンデレラ」は・・ やはり 春日局によってシンデレラにされたお楽の方。

 

  ※ 上野の「東博」の美術館に 3/17-5/10の期間に パリ市民を夢中にさせた

     百済観音がやってきます! その魅力はまた別の機会に書きますね。

               藤原一族が殺めてしまった聖徳太子の子どもたちの無念を。

 

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

 

 

東洋のシンデレラとも言われる徳川3代将軍 側室のお楽の方・・「桂昌院」ですが、

どのような一生をたどったのか?かんたんに説明しますね。



◆ お楽の方の生い立ち

寛永四年(1627)、京都堀川通西藪町の八百屋 仁右衛門の次女として生まれ、お玉と命名。
母・鍋田氏は京都でも評判の美女であり、二人の娘をもうける。
お玉の姉は一条家の家司・大宮宗賀と婚姻。後に「瑞光院」と名乗る。


父仁右衛門は、二条関白の家司(けいし)である本庄家と交流ががあり、
善峯寺の観音様や薬師様を深く信仰し、頻繁に参詣。
小さい頃仁和寺で亮賢(りょうけん)という僧に人相見をしてもらったところ、
将軍家の御生母様になる相があるといわれた・・・・という。


また別説として三鈷寺の僧が、八百屋の店先にいる幼いお玉を見て、
「この娘は天下を治める人物を産むであろう」と告げた・・・・とも言われる。
父の亡後、母は善峯寺・観音の縁により約二年半、お玉と共に善峯寺に奉仕。
この頃の淡い経験から善峯寺の薬師如来を想い、
たらちねの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」 と詠んでいる。

 

罪人にされた父の死後、お玉の母は、本庄太郎兵衛宗正のもとへお玉を連れて奉公に出る。
やがて宗正の後妻となり、本庄宗正がお玉の義理の父となる。
宗正は二条家の家司であり、その縁で六条家出身(六条家は二条家の分流)の永光院(お万の方)が
強引に徳川家光の側室に取り立てられた時に、部屋子を一人、侍女として、

16歳のとき、江戸へ下向する。

 

     ↑ ここがターニングポイントです。

桂昌院2
善峯寺


◆ 大 奥 へ

当時、将軍の夜伽のお褥遠慮は30歳ときまっていたため、

於万は家光の夜伽を28歳で辞することになる。
於万は代わりとして自分の手元で使っていた女中の気に入ったのを将軍に差し出すことになっていた。
母親譲りの美しさで眩しいばかりに輝くお玉は、春日局に認められ「秋野」の名を与えられた上で、
                遂には春日局 ↓  の側衆として抜擢される。



3代将軍の家光は豪の「男色家」だったので そもそも女性になぞ全く興味がなかった。

 

そこに核弾頭こと お楽の方(=お玉)が送り込まれたのです。

 

 

 

お玉は家光も気に入り、将軍付きの中臈(ちゅうろう)となる。
正保3(1646)年20歳の時 懐妊。、「徳松」と呼ばれる男子を出産。後の4代将軍家綱。


懐妊に関しては、仁和寺の亮賢が男子出産とその安産を祈願をし、
男子誕生に際して「極めて尊貴の相である」と告げたと言う。
将軍後継者となり得る男子を出産することは、強運の持ち主。

桂昌院は予言僧亮賢への信望をますます深め、碓氷八幡宮別当大聖護国寺の住職としている。
この時点では、上にお楽の方が産んだ5歳年上の竹千代(のちの綱重)がいた。
慶安四年(1661))4月20日、26歳の時、3代将軍家光が逝去。 徳松は6歳。

 


落飾して(尼となって)桂昌院と称し、大奥を離れ、筑波山知足院に入るのだが、
側女であっても将軍が亡くなれば出家して大奥を出て日陰の身となるべきところを、
「徳松」を生んでいたため好待遇で、共に江戸藩邸に住むことになる。


徳松は賢く、儒教への傾倒も深く、論語を読む事をたいへん好んだ。
やがて徳松が元服し「綱吉」と改名。

 

さらに上野国館林藩藩主となると桂昌院は綱吉と館林藩江戸藩邸に入る。
ここで母子共に幸せな暮らしを過ごすかに見えたが、
強運の神はさらに桂昌院に微笑んだ。

 


延宝八年(1680)8月、桂昌院54歳の時、四代将軍・徳川家綱が後継者不在のままで死去。
大老である酒井忠清は京から親王を将軍に迎えようと画策。
幕府は鎌倉幕府の前例に倣い、親王将軍擁立に動きかけたが、
これに対して堀田正俊が猛然と反対し、家綱の異母弟である綱吉を推挙。
(兄・綱重はすでに死去)

ここに徳川幕府将軍徳川綱吉が誕生し、桂昌院は江戸城中三之丸に居を移す。
そのことから三之丸様と呼ばれ、大奥での力は、さらに絶大となる。

桂昌院3
(c)善峯寺所蔵

 

 

P.S.

 

以上 東洋のシンデレラこと お楽の方の物語でした。

 

謙虚さが 妊活の運気をあげるということを伝えたかったです。